皇室領矢野荘

日本の原風景 中世の荘園

人々が集まって村を作り共同で農作業にいそしむ。一町の土地を持ち十石の米を得る「一町百姓」は、高度経済成長の直前1950年代まで理想の生活スタイルでした。国民は一町百姓を夢見、政府は一町百姓を実現しようとしていたのです。

鎌倉時代後期、荘園公領制のもとで、人々は集まって村を作るようになりました。中央領主・地方領主・農民は、ときには連携ときには対立しながら村を形成します。検地を経て豊臣秀吉・徳川家康が村の自治のうえに幕藩体制を構築、日本は繁栄と平和の江戸時代を謳歌します。

上のパノラマは何気ない風景に見えます。歴史を学びますと、どこにでもありそうな一枚の写真のなかに、邪馬台国の卑弥呼を支えた小国家、渡来人の秦一族、中世の皇室領矢野荘、江戸時代の浅野赤穂藩と日本史のすべてが折り重なっていることがわかってきます。

日本史学科の学生や、歴史を深く学びたいマニアにとっては、魅力にあふれた写真です。

矢野荘へのアクセス

皇室領矢野荘の領域は、そのまま相生市になっています。中世の荘園が一つの自治体として存続している稀有な例です。矢野荘には新幹線あいおい駅があります。東京から4時間、京都から1時間で到着します。矢野荘の政所まで、新幹線あいおい駅から4キロ、10分余りです。

皇室領矢野荘の成立

11世紀、平安時代後期、秦為辰が久富保を開発して、国司の藤原顕季に寄進しました。あいおい駅周辺を占める久富保は耕地としては魅力に欠ける地でした。肥沃な水田は奈良時代の山陽道周辺に国衙領として広がっていたのです。

久富保は藤原顕季から孫の美福門院に相続されました。美福門院は鳥羽上皇の皇后です。院政期の1136年、美福門院は久富保を荘園にする手続きを始めます。その際、鳥羽上皇と美福門院は権力にものをいわせて国衙領を取り込み、巨大な皇室領荘園矢野荘を成立させました。

皇室・摂関家・大社寺はこのような領域型荘園を各地に設立し、中世(院政・鎌倉・室町)は荘園の時代になります。矢野荘は八条院領として管理され、鎌倉時代は大覚寺統に継承されていきます。

地頭海老名氏の進出と下地中分

鎌倉時代、承久の変で後鳥羽上皇方が敗北、皇室領矢野荘にも地頭の海老名氏が相模から赴任してきます。地元では、秦氏の系譜をひくと称する寺田一族が勢力を拡大、1297年の下地中分で矢野荘は地頭方と領家方に分割されました。

1300年、亀山上皇が別名を南禅寺に寄進、1313年、後宇多上皇が例名領家方を東寺に寄進します。領家方の経営に乗り出した東寺と、地元で勢力拡大を図っていた寺田法念が対立、寺田法念は「悪党」と呼ばれるようになりました。

東寺・寺田一族・有力農民はそれぞれの思惑から合従連衡を繰り返し、さまざまなドラマが生まれました。私たちは世界記憶遺産「東寺百合文書」によって、800年前にこの地に生きた人々の動きや考えを知ることができます。

上の地図は、室町時代の矢野荘を示しています。矢野荘は地域的に四つに区分され、それぞれに磐座神社・若狭野天神・下土井大避神社・那波八幡がありました。中世の荘園の統治と信仰が、現代の私たちの宮参りに痕跡を残しています。中世は現在につながっていることを感じさせる地図です。

矢野荘政所周辺

矢野荘の政所があった辺り

矢野荘中心部 政所推定地

新幹線あいおい駅から10分余り、稔りの秋の矢野荘です。写真右手に、皇室領矢野荘の政所がありました。左手の山には中世の下土井城があります。この地域の稲作は古代に始まり、中世には村が形成されました。そして、室町・戦国・江戸から昭和まで、この風景とともに日本人は生きてきました。

しかし、現在、休耕田が広がり、高齢化が進んでいます。まもなく、こうした風景は消え去るのかも知れません。

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