相生の伝承 秦河勝

秦河勝は化生の人です。化生(けしょう)とは仏や菩薩が人々を救うために、人間の姿を借りてこの世に現れることを言います。聖徳太子のブレーンとして活躍した後、化生の人は跡を残さないという言い伝えのとおり、秦河勝は空舟(うつほふね・内をくり抜いた舟)に乗って西海に漂流し、相生湾に漂着しました。

金春禅竹が著した能の秘伝書「明宿集(メイシュクシュウ)」は秦河勝の相生湾漂着をこのように記述します。

業ヲ子孫ニ譲リテ、世ヲ背キ、空舟(うつほふね)ニ乗リ、西海ニ浮カビ給イシガ、播磨ノ国南波尺師ノ浦ニ寄ル。蜑人(あまひと)舟ヲ上ゲテ見ルニ、化シテ神トナリ給フ。

秦河勝は、猿楽の技を子孫に伝えたあと、「化生の人は痕跡をとどめない」という言葉どおり、異界のものが乗るという空舟(うつほふね 木をくりぬいた舟)で西方の海上に漂流し、播磨の国の那波にある尺師の浦に打ち寄せられた。漁師たちが舟を陸にあげてみると、たちまち化して神となられた。

あいおい(相生)は昭和になって一般化した地名です。謡曲高砂の相生の松とは何の縁もありません。古代、この地は八野(やの)と呼ばれていました。ある日、秦河勝が鷹取峠から矢を射ると、矢は八野を越えて三濃山に達しました。秦河勝の矢が飛んだ谷を矢野谷と呼び、八野を矢野と書くようになったということです。

秦河勝が三濃山に狩りを楽しんでいると、お伴の犬が激しく吠えました。河勝が何事かと振り向くと、梢に河勝を狙う大蛇が。二匹の犬は大蛇と闘い、犬も大蛇も生命を落とします。河勝は弓を折って卒塔婆を作り、犬と大蛇を弔いました。三濃山の東麓を流れる谷川沿いを三本卒塔婆といい、犬塚と呼ばれる五輪塔が立っています。

三濃山の山頂に登りますと求福教寺があります。864(貞観6)年、赤穂郡司秦内麻呂が秦河勝を偲んで創建しました。源義家の保護を受け山岳仏教の聖地として栄えましたが、平家の焼き討ちなどによって衰退しました。江戸時代から三濃山村の人々が寺を守り、1978(S53)年から81(S56)年にかけて、鞍居の金川氏が観音堂や山王神社を修復しました。

求福教寺は観音堂を中心におき、弁天・大避神・山王権現が周りにあります。日本古来の神仏習合・本地垂迹説の考え方に基づく伽藍配置です。金春禅竹はこのように説きます。「秦河勝は翁である。翁の働きは星宿神(北極星)の光のようにあらゆるものにふりそそぐ。それは観音菩薩の恵みと同じものである。翁の本地は大日如来であり、大避明神は翁が垂迹したものである」

秦一族は北極星に最も近い三濃山に寺を創り、本堂に千手観音(河勝・翁)、脇に翁が垂迹した大避大明神を祀ったのではないかと、明宿集を読みながらそう思いました。

このエントリーをはてなブックマークに追加

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする