相生の観光地

荘園都市あいおい

相生の歴史と文化をめぐる観光地マップを作りました。北端の三濃山上空から撮影した写真をベースにしていますので、南の瀬戸内海が上になっています。

古代の磐座神社・羅漢石仏・求福教寺

中世の感状山城・矢野荘の大避神社・海老名系の神社

近世の浅野陣屋

近代の造船所・相生駅

北方の矢野川流域から南方の相生湾周辺に向けて産業圏や生活圏が広がった様子がわかります。主要交通路も、奈良時代の山陽道や鎌倉時代の筑紫大道は北の谷を通っていましたが、江戸時代の西国街道や明治時代の鉄道は南の谷を山々を迂回しながら敷設されています。そして、現代の新幹線や山陽高速道路はトンネルで直進していきます。

海上交通路は、奈良時代から江戸時代まで沿岸を通り、坂越や室津が栄えました。今、航路は沖に浮かぶ家島の南を直進します。坂越や室津には古い町並みが残り繁栄をしのぶ観光地になりました。

江戸時代は河川交通の時代でした。西播磨では龍野と赤穂に城が築かれて城下町が形成され、主要河川のない相生は赤穂藩の一部になります。工業化とともに鉄道と良港をもつ相生は工業都市に成長し、龍野・相生・赤穂は三ツ星のように並ぶ小都市になりました。

江戸時代の城下町を見るなら龍野や赤穂です。相生の特長は荘園と古代・中世・近世・近代を流れる時間です。観光地としてまったく無名の相生ですが、歩きながら時間の流れを楽しむツーリズムへと発想を転換すれば、新しい魅力が見えてきます。歴史好きなご夫婦、教科書の日本史を実体験したい教師志望の学生など少人数でゆっくりした日程で訪れてください。一泊二日で日本史のすべてを追体験できます。駅前のビジネスホテルを拠点にして、荘園都市あいおいを歩きましょう。

三濃山求福教寺

三濃山求福教寺

矢野荘の北端、最高峰三濃山の頂上近くに求福教寺があります。864(貞観6)年、秦内麻呂が秦河勝を偲んで創建しました。山岳仏教の聖地となり、源義家の保護を受けて三濃千坊といわれるほど栄えましたが、平家の焼き討ちにあうなどして次第に衰えてしまいます。

江戸時代、山上の開発が進んで三濃山村が成立し村人たちが求福教寺を守ってきました。高度経済成長期、人々は山を去り寺は荒れ果てていました。昭和末期、上郡で事業を始めた篤志家が寺の再興に努め、観音堂や山王神社を修復したり移築したりして現在の姿になりました。

相生の観光 求福教寺秦河勝を祀る観音堂

求福教寺は、秦河勝を偲んで創建された寺院であるにもかかわらず、本堂は観音堂でその脇に小さな大避神社があるという配置になっています。この配置は神仏習合という日本古来の様式を伝えており、観音菩薩(仏)が大避神社の本体という本地垂迹の思想を現しています。

こよなく矢野を愛した福田眉仙画伯は、1928(S03)年、求福教寺観音堂の本開帳にあたり、盛時の求福教寺を描き、登山する善男善女とともに故郷を追憶しました。この掛け軸は、秦河勝ゆかりの鳴鑵子(文福茶釜)とともに歴史民俗資料館に展示されています。

相生の観光 三濃山の廃村三濃山の廃村

大正時代の工業化から100年、相生市は造船工業都市として発展しましたが、その蔭で二つの村が消えています。大正時代、商品経済の浸透とともに消えた黒蔵村、昭和後期、高度経済成長のなかで消えた三濃山村です。それから半世紀、三濃山には人々が生活していた証しが残っています。電気は来ていたが車は上がれなかった、電報は届くが郵便は来なかった村。江戸時代の開発の最後に成立し、それなりに住みやすいと云われた村が、経済成長のなかで消えていきました。そして今、古代から人々が住み続けてきた山麓の平地から集落が消えようとしています。

三濃山には自動車では登れません(救急等で許可を受けた車は上がります)。

登り口は、羅漢の里管理事務所の横から続く鍛冶谷道がメインルートです。ハイキングの人たちはここから登ります。求福教寺まで2時間かかります。かつて三濃山村の子供たちは鍛冶谷道を小学校に通学いました。

二つ目の道は、能下の犬塚の近くから川筋を登ります。近道ですが傾斜は急で荒れています。慣れていない人には薦めません。

三つ目の道は、テクノ(光都)の貯水タンクの横から登ります。この道は、テクノ開発後に利用されるようになった新しいルートで、30分で求福教寺に着きます。テクノの標高が高いので高度差もそれほどではありません。

四つ目の道は、感状山城経由の山道です。健脚のハイカーには面白いコースです。途中、お地蔵様などがないので歴史屋にはイマイチですが。

この他に、上郡町鞍居からの坊さん道があります。かつては主要な道でしたが、近年は通る人は皆無に近い道です。

兵庫県相生市矢野町三濃山

犬塚と三本卒塔婆

相生の観光 犬塚能下の犬塚

相生市矢野の能下から龍野市の二柏野に向かう坂道の途中に中世の五輪塔があります。この辺りの地名を三本卒塔婆、五輪塔を犬塚といいます。

秦河勝が三濃山で狩を楽しんでいたとき、大蛇が河勝を襲おうとしました。これに気がついたお供の犬が大蛇と闘い、犬も大蛇も生命をおとします。悲しんだ河勝は弓を三本に折って卒塔婆を作り、自分を守ってくれた忠犬を弔いました。

お供の犬が吠えるので河勝が切り殺したところ、犬の首は宙を飛びます。そこには、河勝を狙う大蛇が。河勝は大蛇を弓矢で射殺し、大蛇と犬のために三本の矢を立てて卒塔婆にしました。

犬が三匹、犬は二匹で大蛇と併せて三匹、卒塔婆は弓、卒塔婆は矢、などバリエーションはありますが、秦河勝と忠犬の物語は共通しています。

矢野から新宮に向かう街道は、谷川の西岸にありました。犬塚は街道から三濃山への登山口が分岐する三叉路にあります。昔は交通の要地だったわけです。ところが、1980年代にスプリング8が建設され、谷川の東岸にテクノラインと呼ばれる新道が開通しました。今、犬塚は旧道にひっそりと佇んでいます。春になると、犬塚には桜と椿が満開になります。

矢野荘の総鎮守磐座神社

相生矢野 磐座神社磐座神社

矢野荘は長い歴史をもち、多様な文化が折り重なっています。

最も古いものは原始の巨岩信仰に連なる磐座神社です。原始、人々は浄原にある雌雄の高座石を信仰していました。農耕が始まり平地に住むようになると、人々は神様に近くに降りてきてくださるようお願いしました。神様が浄原から神山(北から高厳山・権現山・龍王山)に降りて来られますと、人々はもっと近くにきてくださいと願います。神様は麓に降りて座光石になりました。磐座神社は神山と座光石をご神体とし、矢野荘の総鎮守として信仰を集めてきました。

柿本人麻呂が 「つまごもる 矢野の神山 露霜に 匂ひそめたり 散りまく惜しも」と詠んだという伝承があり、近年は紅葉の美しい神社として知られています。

神山(北から高厳山・権現山・龍王山)

瓜生羅漢石仏

相生の観光 瓜生羅漢瓜生羅漢石仏

羅漢渓谷の岩窟に、釈迦如来を中心に文殊菩薩・普賢菩薩・十六羅漢像を配した石仏があります。学術的には、室町時代の作品と推定されています。伝承では、欽明帝のとき、百済から渡来した恵便・恵聡が刻み、秦河勝が二師を訪ねて三濃山を訪れています。古代から石仏の周囲の巨岩への信仰があり、いつしか石仏の形になったのでしょう。

羅漢渓谷

大正時代初期に、時計回りに羅漢渓谷を巡る参道が整備されました。羅漢橋を渡ると霊像記碑など石碑がいくつも並んでいます。ここから、谷川を渡り巨石の間の急な石段を登ると羅漢さんを祀る岩窟です。岩窟の前に安産杉は二代目です。

羅漢の里には桔梗隼光さんの鍛刀場があり、第二・四日曜日には小刀づくり体験ができます。市立の施設として、石窯パン焼・陶芸体験、コテージやキャンプ場があります。小さな遊技のある公園、林と小川、夏は子どもたちで賑わいます。

自動車は羅漢の里管理事務所前の駐車場まで入れます。かつては、ここから三濃山村や上郡の鞍居村へ多くの人が歩きました。羅漢渓谷から三濃山まで約2時間、矢野小学校に通う児童が毎日通学した道です。現在は、テクノ側から徒歩30分の近道ができ、そちらを登る人が増えています。

YouTube 相生TV 「羅漢十六仏」

YouTube 相生TV 「刀匠桔梗隼光」

矢野荘と下土井城

矢野荘中心部

写真の右手は、中世には矢野川と小河川に挟まれたナカバサミと呼ばれる要害の地で、鎌倉時代に皇室領矢野荘の政所がありました。圃場整備中、家並みの中央部に平安時代の有力者の屋敷跡(下土井遺跡)が発見されており(埋め戻されています)、古代から統治拠点であったことがわかります。皇室領矢野荘の中心部

矢野荘は皇后美福門院から娘の八条院を経て大覚寺統に受け継がれました。鎌倉時代、海老名氏が地頭として活動し始めると、領家と年貢の徴収をめぐって紛争が起こります。1297(永仁5)年、領家と地頭は下地中分を行うことで合意しました。下地中分はこの地域を東西に分割し、東を地頭、西を領家の所領と決めました。

1313(正和2)年、後宇多上皇は後醍醐天皇即位の支援を得るため、矢野荘の領家分を東寺に寄進します。東寺は鎌倉時代末期から室町時代にかけて矢野荘の経営にあたり記録を保存しました。この記録が東寺百合文書の荘園関係資料に含まれています。

矢野荘と下土井城

背景の小山は下土井城です。矢野川本流と小河川に挟まれた標高129.3米の丘に頂上にあります。尾根を削って堀切をうがつ典型的な南北朝期の山城です。「岡城記」は国人岡豊前守の城であったという伝承を伝えます。城の南に矢野荘の中心部の平野が広がっています。

鎌倉時代後期の下地中分によって、西は領家方、東は地頭方になります。領家方は公文職と大避神社神官を有する寺田法念、地頭方が海老名氏が現地の実権を握っていました。1313年、皇室から矢野荘の寄進を受けた東寺は荘園の支配権利確立をめざして寺田法念と対立、東寺と寺田一族は戦いを繰り返します。東寺など体制側から見れば彼らは(悪いという意味をこめて)「悪党」であり、新しい秩序を打ち立てようという側からみれば(強いという意味を込めて)「悪党」でした。寺田法念は「都鄙名誉の悪党」と呼ばれています。

聖地、大避神社(土田宮)

矢野荘の歴史を語る下土井大避神社

秦河勝を祀る大避神社です。世界記憶遺産「東寺百合文書」に登場し、聖地と呼ぶ中世研究者もいるほど、荘園史の世界では有名な神社です。鎌倉時代から室町時代にかけて、有力農民は大避神社の十三日講に集まり、時には一揆に至りました。

東寺百合文書から有力農民と領主東寺の協調と対立の推移を読んでみます。

①1335(建武2)年 東寺と有力農民の協調

皇室から寄進を受けた東寺は矢野荘の支配権の確立をめざし、悪党寺田法念と戦いました。東寺は大避神社の裏山に要害を築きます。有力農民は東寺に協力して合戦に加わり、東寺の支配権確立に協力して名田の拡大に成功します。

②1369(応安2)年 東寺が農民指導者を警戒

東寺百合文書の伝える出来事の真相をめぐり、研究者は「十三日講事件」と呼ばれる論争を繰り広げました。東寺代官祐尊が農民の指導者実円を追放しようとした策謀であると考察されています。

③1377(永和3)年 東寺に対して農民が一揆を起こす

矢野荘で大規模な一揆が起こり、東寺から一揆の指導者とみなされた実長が提出した弁明書が残っています。鎌倉時代後期から、農民は集住して村を形成し始めました。室町時代になると、惣村は水利や農作業で協力し自治を強めます。農民は領主と対立し、逃散や一揆で抵抗するようになりました。

東寺百合文書は中世の農民の名前や言葉を今に伝えます。地方で中世に生きた人々の名前や言葉が残っているところは希有です。皇室領から東寺領に移るという絶妙の継承によって文書が伝わり、矢野荘は歴史に恵まれた地域になりました。

旗本浅野家若狭野陣屋

若狭野にある浅野陣屋

浅野赤穗藩初代藩主浅野長直には息子と娘がいました。浅野長直は娘が大石家に嫁いで産んだ孫をかわいがって養子(浅野長恒)にします。そして、長男の浅野長友を二代藩主にし、浅野長恒を分家させて若狭野三千石を与えました。もう一人の養子、浅野長賢は加東郡の家原で分家を立てます。赤穗の本家は元禄赤穗事件で改易されますが、二つの分家は旗本として幕末まで続きました。

旗本若狭野浅野家系図

寛文11年(1671)、浅野長恒は将軍に拝謁して旗本に列せられました。若狭野浅野家は長恒の幼名長三郎隼人にちなみ、浅野隼人家と呼ばれます。

元禄14年(1701)、浅野内匠頭長矩が吉良上野介に刃傷に及ぶ元禄赤穂事件が起こり、元禄15年(1702)には、生家大石家の大石良雄が吉良邸に討ち入りました。浅野長恒は謹慎しましたが許されて、浅野分家は旗本として存続しました。

吉良邸討ち入りが成功すると、大石内蔵助は寺坂吉右衛門を走らせて浅野長恒に報告させます。赤穂浪士の討ち入りは世間での評価が高まる一方で、幕府の公式裁定は御法度違反のままでした。旗本浅野家は粛々と赤穂義士の回向を続け、明治維新が起こると赤穂義士の赦免を願い出ています。明治天皇は四十七士は義士と聖断し、赤穂では義士祭が行われるようになります。戦前、義士祭には近隣の中学校は赤穂をめざし、赤穂高女の女学生は若狭野陣屋で義士を偲びました。

御殿屋敷跡上空から見る札座

19世紀に入り、家政改革のため大坂天王寺屋を札元として藩札(札切手)が発行されます。このとき、藩札発行をはじめとする政務のために札座が建築されました。

江戸時代、大名が200人、大身旗本が200人いました。大身旗本は江戸に在住し幕府の奉行など要職に就きました。陣屋とは城を持たない小大名や大身旗本の統治拠点です。明治以降、城は地域の象徴として保存されましたが、旗本の陣屋は取り壊されるものが多くありました。建築物が残る例は少なく、残ったものも陣屋門が多く、政務のための建築物が残っていることは極めて珍しいのです。

浅野陣屋の札座は地域の庵寺として再利用されたために解体を免れました。2006年、浅野隼人家の文書が発見されました。この文書は赤穗藩上屋敷から浅野分家の屋敷に移され、幕末まで書き継がれ、明治維新で陣屋に戻ってきました。現在、浅野隼人家文書は龍野歴史文化資料館と関西大学に所蔵され、赤穗藩や旗本研究の新しいフィールドとなっています。

浅野陣屋の札座は一級の文書に裏付けられる貴重な文化財ですが、歴史的価値・文化的価値を理解されることなく解体されようとしています。浅野陣屋保存ネットワークが陣屋を修復し浅野陣屋記念館の設立をめざしています。

御殿屋敷跡にたつ須賀神社

浅野陣屋の北半分は1942年に浅野家から若狭野地区に寄贈されました。御殿屋敷の跡は広場になり、須賀神社と薬師堂が移転してきました。左の稲荷神社は浅野家の守護神、中央の須賀神社は地区の鎮守、右の薬師堂は和泉式部の守り本尊薬師如来を祀っています。

浅野陣屋全景

秦河勝漂着の地

秦河勝が神になった尺師の浦

金春禅竹は、能楽金春流の開祖で、世阿弥の娘婿です。金春禅竹が著した能の秘伝書「明宿集(メイシュクシュウ)」は、秦河勝の相生湾漂着をこのように記述します。

業ヲ子孫ニ譲リテ、世ヲ背キ、 空舟(うつほふね)ニ乗リ、 西海ニ浮カビ給イシガ、 播磨ノ国南波尺師ノ浦ニ寄ル。 蜑人(あまひと)舟ヲ上ゲテ見ルニ、 化シテ神トナリ給フ。 当所近離ニ憑キ崇リ給シカバ、 大キニ荒ルヽ神ト申ス。 スナワチ大荒神ニテマシマス也。

聖徳太子の御代、太子は猿楽を舞うことによって平和をもたらそうと考え、秦河勝に命じて「翁」の舞を行わせた。こういう因縁を考えてみると、秦河勝は「翁」が仮に人間の姿をとって現れた存在であるということに、疑いの余地はない。(中略)

秦河勝は、猿楽の技を子孫に伝えたあと、「化生の人は痕跡をとどめない」という言葉どおり、異界のものが乗るという空舟(うつほふね 木をくりぬいた舟)で西方の海上に漂流し、播磨の国の那波にある尺師の浦に打ち寄せられた。漁師たちが舟を陸にあげてみると、たちまち化して神となられた。那波だけでなく遠くの村々にまで憑いて祟りをおこされたので、大いに荒れる神と呼ばれた。すなわち大荒神である。

空舟は異界から生命力を運ぶものである。空舟によって守られてきた生命力は空舟を出て異なる世界の存在へと転換する。この転換を起こす生命力、そして異界への転換というダイナミックな動きこそ、翁であり宿神であり大荒神なのである。

播磨ノ国南波尺師ノ浦とは、相生湾にある那波の白鷺の鼻のことです。難波から南波へ、宿神(しゅくしん・しゃぐじ)と尺師が対応しています。史実として、秦河勝が相生に漂着したわけではありません。しかし、金春禅竹は「秦河勝は相生湾に漂着して神になった」と書き記しています。江戸時代まで、尺師の浦は海中に長く突き出た岬で、「白鷺の鼻」「杓子の鼻」と呼ばれていました。杓子の先端は取り崩されてペーロン城の駐車場になっています。北の公園の西縁に沿って長く伸びた岬が残っており、付け根のあたる辺りに大避神社があります。大避神社は秦河勝を祀る神社で赤穗郡に多く存在しています。

1960年代の尺師の浦

ペーロン城の駐車場は「秦河勝が神になった」パワースポットです。当地を訪れる人々はそうとも知らず宿神のパワーを授けられています。

和泉式部雨宿りの栗

得乗寺の雨宿りの栗(しだれ栗)

那波の得乗寺の中庭にある枝垂れ栗です。この栗には和泉式部の伝承があります。

平安時代、和泉式部は娘の小式部と生き別れになりました。後年、和泉式部が姫路の書写山に性空上人を訪ね、矢野荘の庄屋五郎太夫のもとで小式部が育てられているという噂を聞きます。和泉式部が小式部を尋ねて矢野荘に来たとき急に雨が降り始めました。式部は路傍の栗の木の下に宿り「苔筵(こけむしろ)敷島の道に 行きくれて 雨の内にし 宿る木のかげ」と歌を詠みました。すると栗は静かに枝を地面に垂れて式部を雨から守りました。雨内村という地名は、この歌に由来します。

和泉式部は娘と再会し都に連れ帰ります。和泉式部は守本尊の薬師如来を村人に預け、村人は薬師堂を建てました。今、薬師堂は若狭野の浅野陣屋の一角に移されています。

得乗寺

栗の木は若狭野村の雨内にありましたが、いつの頃か那波に移植されて得乗寺にあります。古木であり寺の中庭にありますので、普段は公開されていません。住職は「私が居るときであれば、お見せします」と話しておられます。見学希望者は事前に得乗寺に電話して予約してください。

戦前、「雨宿りの栗(しだれ栗)」は瓜生の羅漢石仏と並ぶ相生名所でした。栗祭りが催され、「式部もなか」「宿り栗」という銘菓がありました。また、昭和8年、枝垂れ栗は兵庫県の天然記念物に指定されています。

しかし、今、枝垂れ栗は観光マップから消えています。枝垂れ栗は希少な突然変異種で筑波の研究所の調査によれば、西日本には二カ所、近畿では得乗寺だけにあります。老木で樹勢が衰えていましたが、得乗寺の尽力で元気を取り戻しました。知る人ぞ知る枝垂れ栗として静かにしておく方が良いかも知れません。

和泉式部と小式部内侍の出会いは、矢野荘の人々に最も愛されている伝承の一つです。和泉式部と小式部内侍の伝承は、各地にあり「再会」「歌」「泉と薬」がテーマになっています。また、枝垂れ栗は数少ないこともあり、有名な人物との関わりが伝承となっています。和泉式部と枝垂れ栗を組み合わせて「雨宿りの栗」とした矢野荘の伝承は式部伝承の傑作で、歌人と樹木のふれあいが人々の心を引きつけるのでしょう。

なお、相生市立歴史民俗資料館に「雨宿りの栗」の枯れた幹があります。雨内にあった枝垂れ栗のものです。那波得乗寺の枝垂れ栗は雨内の枝垂れ栗から遺伝子を受け継いだ栗の木と推定します。

那波浦と大島城

相生大橋から見る那波浦と大島城

中央の緑の深い小山が地頭海老名氏の大島城。左の丘陵には那波浦城がありました。那波は矢野荘の港で市が立ち、矢野荘の年貢はこの海を通って京・大坂に運び出されました。

左の赤煉瓦の建物は市立図書館、中央の白壁の建物は市立歴史民俗資料館。二階が矢野荘の歴史、一階が造船工業都市相生の歴史を展示しています。

相生湾の内湾には、このような干潟が広がり、戦後までカブトガニが生息していましたが、次々とコンクリートで固められてしまい、わずかに干潟が残っています。兵庫県の播磨灘で、自然の干潟や自然林が町並みのすぐそばに残っているのはここだけです。

かつては、この海は相生村と那波村の境界でした。今は、相生大橋が架かり二つの地域は一体化が進んでいます。この海が那波港への航路になっているため、相生大橋は奇異に見えるほど高い位置に架橋されています。

新幹線相生駅

相生駅

JR相生駅周辺、山陽新幹線と山陽本線の駅があり、赤穂線が分岐します。この辺りは地峡になっていて、山越えやトンネルを避けようとするとここを通過しなければなりません。江戸時代の西国街道もここを通り、一里塚が相生駅のところにありました。近代に入っても、国道二号線・山陽本線・山陽新幹線が相生駅に集中しています。

山陽鉄道の中上川社長は、難事業のトンネルを避けるとともに線路の勾配を「100分の1以下」にする方針をとりました。この方針に従うと姫路から岡山県境までのルートは技術的に決まります。山陽鉄道は西国街道に並行し、相生駅から谷間を通過して矢野荘の中心部を通り有年駅に向かいます。1890年、那波駅が開業、1942年の相生市発足にともない相生駅と改称されました。

相生市の北部を流れる矢野川の流域は公地公民制の時代から開発されていましたが、相生駅から南の地域は、平安時代中期まで未開発の土地でした。1075年、赤穂郡司秦為辰が開発に着手し「久富保」と名付けます。開発された土地は国司の藤原顕季に寄進され、孫の美福門院に受け継がれました。1137年、鳥羽上皇の皇后となった美福門院は、矢野川流域の国衙領を合わせて皇室領矢野荘を成立させます。矢野荘は現在の相生市全域を含む巨大な荘園です。最近の教科書は、中央の権力が創り出す巨大荘園を領域型荘園と呼び、中世の始まりと位置づけます。荘園都市あいおいは、中世矢野荘が現代に甦った小都市です。

相生駅

相生駅より南の地域は、矢野荘浦分と呼ばれ、鎌倉時代・室町時代は地頭海老名氏の勢力圏でした。第一次世界大戦中、鈴木商店が相生に進出し播磨造船所を拡張するとともに、海岸を埋め立てて社宅街を建設、相生は企業城下町として発展しました。

相生の観光

首都東京、古都京都、名城姫路と並べますと、時代でいうと中世。地域でいうと農村が満たされていません。観光からツーリズムへ、日本の平均的な田舎がどのように歴史を刻んできたか、ここまで思い至ったとき荘園都市あいおいの魅力がわかります。

矢野荘(相生)に観光バスの観光客は来ません。でも、この地を訪れる人はいます。歴史を学ぶ大学生や大学院生です。研究者は矢野荘を「宝石箱」「聖地」と呼びます。矢野荘は、東寺百合文書・浅野隼人家文書・明宿集という一級のエビデンスに恵まれ、歴史の歩みを示す史跡が注目されることなく残っています。

観光バスで見て回るのでは矢野荘(相生)に来る意味がありません。一人旅、夫婦二人連れ、歴史好きの小グループで歩き、まる一日、できることなら一泊二日で日本史のすべてを楽しんでいただきたいと思います。宿舎は駅前にビジネスホテルがあります。

必要なのは、歴史の知識です。十分に予習して矢野荘(相生)に来てください。

予算があるようなら、ガイドを紹介します。ボランティアガイドではありません。専門家を一人一日雇えばそれなりの費用はかかりますが、有意義な時間を楽しめるものと自負しています。

地頭海老名氏の信仰

那波八幡神社

1221年の承久の変で朝廷が敗北し、皇室領矢野荘にも関東から地頭が着任しました。相模の海老名氏です。那波八幡宮は、鎌倉時代、海老名氏が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請した神社で、矢野荘の南部五ケ村の鎮守です。

海老名氏が、相模生まれから相と生を取り大浦のオオに当てはめたことから相生(おお)という地名が生まれました。相生(あいおい)と呼ぶのは近年のことで、駅名は1942年の市制とともに那波駅から相生駅に変わっています。

弁天神社(厳島神社)

陸地に弁天様が祭られていると知らない人は不思議に思いますが、歴史を辿ると合点がいきます。

鎌倉時代、地頭海老名氏の居城は大島にありました。海老名氏は大島の東にある双子島に江の島の弁天様を勧請して大島城の守りとしました。明治時代まで、弁天社は、双子島という海中の島にある小さな祠でした。大正時代、双子島は鈴木商店の社宅街建設で地続きになります。日本各地から集まってきた社宅街の住民は、社宅街の弁天様を鎮守にし、社殿を今のものに建て替え、安芸の宮島の灯篭流しを夏祭りに取り入れました。こうして、弁天社は厳島神社になりましたが、古老は「江の島の弁天様なのに」と言います。さらに、前方の弁天浜が埋め立てられ、太平洋戦争中、海軍の簡易造船所建設工事で大きい方の島が削られてしまいました。そして、写真のように、陸地となった小さい方の島に大きな社殿が乗っかるという現在の姿になったのです。

相生天満神社

鎌倉時代、地頭の海老名氏は流れ着いた菅原道真像を祀り天神社を創建しました。相生市の秋祭りは、10月初め、那波八幡宮の秋祭りから始まり、11月3日の相生天満宮の秋祭りで終わります。那波の八幡様、旭の弁天様、相生(おお)の天神様は、鎌倉時代に地頭海老名氏が関東から伝えた信仰なのです。

造船所の社宅街

社宅

鈴木商店は播磨造船所と並行して、社宅街を建設しました。社員社宅・職工社宅そして商店街・病院・幼稚園・劇場と埋立地に一つの町を作ったのです。佐多稲子は、町ができていく様子は不思議を見ているようだと表現しています。

造船所のある町では、帝国大学の卒業生から半島から渡ってきた人、そして地下の人という様々な人々が狭い空間で暮らしていました。社宅街で生まれ育った映画監督浦山桐郎の「キューポラのある町」には、監督が相生で見た光景が投射されています。当時の薮谷、今の旭を歩きますと、社宅街があちこちに残っています。

相生の社宅街

社員社宅です。敷地は百坪あります。大正時代、帝国大学の卒業生を社員として迎えるために建てられました。企業城下町相生は厳しい階級社会でした。佐多稲子や浦山桐郎は旧制中学校卒業の課長級社員の子弟です。浦山桐郎の父、歌人の浦山貢は「大学に行け、それも東京大学に」と語っていたといいます。

戦後、造船ブームとともに、社員社宅の子供も職工社宅の子供も等しく大学に進学する機会を得ました。造船所は「子供たちを大学に」という人々の夢をかなえました。今、その役目を終えた社宅街は静かに姿を消そうとしています。埋立地で、坂がなく、市役所・スーパー・病院に歩いて行ける社宅街は高齢者にやさしい町として最後の役目を果たしています。

左の高層ビルは、造船所の播磨病院。大正時代から百年にわたり地域の医療を支えてきました。

大本百松顕彰碑

大本百松邸跡に建つ顕彰碑。大正時代、大本百松は三上英果に随って相生に移り大本組を創業、播磨造船や鈴木商店の土木工事で成長し、故郷岡山に錦を飾りました。

鈴木商店の赤煉瓦倉庫

播磨造船所とペーロン

第一次世界大戦中、鈴木商店が播磨造船所を拡張し、相生は近代工業都市に成長します。右端の赤煉瓦倉庫は、唯一残る鈴木商店時代の建物です。

造船所の拡張にあわせ、長崎や呉から大勢の人々が相生に移り住みました。1922年、長崎出身の人たちが故郷を偲び、ペーロン競漕が始まりました。戦前、ペーロン競漕は造船所の海上運動会で、職場別の対抗戦でした。現在は、5月末に市内外の市民チームが参加、女子も競漕に参加しています。左のペーロン船は子供たちの体験乗船です。

造船所は西岸にあり、戦前は東岸の町から渡船で造船所に通いました。大正時代、佐多稲子が少女時代を相生で過ごしました。佐多稲子の「素足の娘」には、大正時代の相生の姿が生き生きと描かれています。20世紀末まで、造船所の見える相生の町には造船所とともに栄えた港町の風情漂う街並みが残っていました。なかでも、明治46年創業、造船所御用達の高級旅館であった「水月」は大正モダンの姿でランドマークになっていました。

しかし、2016年、「水月」は姿を消しました。佐多稲子が「素足の娘」で描き、野口雨情が「オオの港はなつかし港、軒の下まで船が着く」と作詞した「水月」は惜しげもなく解体されてしまい、大正・昭和の歴史を刻んだ港町は消えました。干鰯の肥料商として財を成し、唐端清太郎を盛り立てて播磨船渠の創立に力を尽くした浜本家の邸宅が残るばかりです。

播磨造船所(IHI相生)

播磨造船所(IHI相生)

明治末期、漁村であった相生(おう)村は、若き唐端清太郎を村長に招聘しました。1907年、相生村長のまま兵庫県会議長に就任していた唐端清太郎は、港と造船で繁栄する神戸を見て「相生を西の神戸に」と考え、村の未来を託して小さな造船所をハリマドックを創立しました。第一次世界大戦中、唐端清太郎は鈴木商店の金子直吉にハリマドックの買収と拡張を持ちかけます。鈴木商店は膨大な資本を投下して播磨造船所を有力造船所に育て上げました。

1960年、播磨造船所は石川島播磨重工と合併、1962年から64年にかけて世界最大の建造量を記録しました。相生湾の西に広がる播磨造船所は「世界で最も審美的な造船所」と呼ぶ人もいる造船所でした。1987年、相生での新造船事業は終わりましたが、船首のバウ・船橋・ディーゼルなど製造は続いています。

対岸にある遠見山から見る造船所。フェリーが多く入渠し、修繕を受けたり、船によっては改装されて外国に輸出されています。上部構造物が白、船体が黒のツートーンの船は「はくおう」です。新日本海フェリーの貨客船で自衛隊がチャーターし、熊本地震の救援活動などで活躍しました。

万葉の岬

万葉の岬とおわん島

相生湾の突端の東に金ヶ崎、西に釜ヶ崎と呼ばれる岬があります。東の岬は、昭和末期に万葉の岬と名付けられました。

瀬戸内海が遠望でき、淡路島・家島から小豆島が見えます。空気の澄んだ日には、明石海峡大橋が見えることも。眼下の島は相生湾の入り口にあるおわん島。造船所の全盛期には巨大なタンカーや貨物船が停泊していましたが、今は秋から冬にかけて牡蠣のイカダが島を囲みます。東の揖保川、西の千種川から絶えず牡蠣の栄養が流れ込むため、この海域で養殖される牡蠣は一年で大きく育ちます。

外部の人は牡蠣は2月までと思っていますが、牡蠣は3月末から4月初めまで育ち卵のように大きくなります。地元の人に縁があって春の牡蠣を手に入れることができたら、そのパワフルな美味しさに驚くことでしょう。

万葉岬からの室津室津

万葉の岬の東隣にある室津。古代から江戸時代まで、西から来る船は室津をめざしました。江戸時代、参勤交代の季節は潮の関係があり、西国大名は室津に上陸し室津街道から西国街道をめざしました。朝鮮通信使も室津に泊まりました。

室津は遊女発祥の地と呼ばれ、竹下夢二が愛した港です。大正時代になると、室津は港として規模が小さいために衰え、代わって相生湾の播磨造船所が興隆します。鈴木商店が播磨造船所に送り込んだ社員たちは、キリスト教や修正資本主義など理想派の考えを持ち遊郭を許しませんでした。男たちは野瀬から尻見坂を登り山を越えて室津を目指し、山越えの道は遊女街道と呼ばれるほどでした。

室津には賀茂神社など港町の繁栄を伝える多くの史跡があります。近年は漁港として賑わい、新鮮な水産物を味わうことができます。

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