相生の観光地 若狭野陣屋

相生の観光 浅野陣屋

旗本三千石浅野家の若狭野陣屋。後方の薬師堂のある辺りまでが陣屋跡です。前方の札座は、藩札(札切手)の発行を含む所領統治の役所として建てられました。

江戸時代後期、各地の旗本が家政改革を行いました。若狭野浅野家も1822年に藩札を発行するなど家政改革に取り組んでいます。江戸時代、一万石を超える大名が200家、3000石~5000石の大身旗本が200家ありました。大名の城跡や陣屋跡は多くが保存されていますが、大身旗本の陣屋跡で残るものはそれほど多くはありません。若狭野陣屋は敷地全体が残っているうえ、江戸時代後期の建築物(札座)が残っています。旗本陣屋の陣屋門は各地に残っています。しかし、札奉行が政務をとった役所として使われた建築物は、全国でこれ一つかも知れません。地味な建物ですが、歴史的に貴重なものです。


若狭野浅野家と赤穂藩の系図

正保2年(1645年)、常陸国笠間藩より浅野長直が5万3000石で赤穂に転封、浅野赤穂藩が成立しました。
(初代藩主) 養子 浅野長賢
浅野長直  実子 浅野長友(二代藩主) 長矩(三代藩主)
養子 浅野長恒(若狭野陣屋)
浅野長恒は、長直の娘が大石家に嫁いで生まれた子供(長直の孫)です。長直は娘が産んだ孫をかわいがって養子(浅野長恒)とし、分知するよう長友に働きかけました。寛文11年(1671)、浅野長友は義兄長賢・義弟長恒を分知し、長賢と長恒は将軍に拝謁して旗本に列せられます。浅野長恒の領地は若狭野周辺の三千石と決まりました。長恒の幼名長三郎隼人にちなみ、浅野隼人家と呼ばれます。

元禄14年(1701)、江戸城で浅野内匠頭長矩が吉良上野介に刃傷に及ぶ元禄赤穂事件が起こります。元禄赤穂事件で赤穂藩は改易され、元禄15年(1702)には、生家大石家の大石良雄が吉良邸に討ち入ります。しかし、旗本浅野家は一時謹慎状態になったものの許されて、旗本として幕末まで続きました。


相生の観光地 若狭野陣屋

若狭野陣屋の中心部です。江戸時代、大身旗本は江戸に住み幕府で奉行職などに就きました。当主が所領に帰ることは稀で、在地の家臣が統治にあたりました。ここには二棟の建物がありました。明治維新で当主の浅野長発が土着、ここに御殿屋敷と家老屋敷を建てました。しかし、明治30年代に浅野家は陣屋を去ります。1942(S17)年、陣屋の北半分は浅野家から若狭野地区に寄付されました。御殿屋敷跡は広場になり、北辺に稲荷神社・須賀神社・薬師堂があります。中央は若狭野須賀神社で、昭和前期に陣屋内に移転してきました。薬師堂も移転してきたものです。


若狭野陣屋跡稲荷神社

左は稲荷神社。稲荷神社は浅野家の守護神で、江戸時代から若狭野陣屋のなかに祀られていました。中央は須賀神社と絵馬堂。右手に薬師堂があります。薬師堂は、和泉式部が小式部内侍を探して若狭野に来たときに残した守本尊を祭っています。元は西所という場所にありましたが、今は陣屋の中にあります。


若狭野陣屋

旗本浅野家が成立した頃は、本家の赤穂藩が若狭野を含めて統治していました。したがって、陣屋は小規模で長屋がある程度でよかったのです。

1701年、浅野内匠頭の刃傷事件で浅野赤穂藩は断絶します。旗本浅野家は所領を統治するために陣屋を移転拡張しました。19世紀になると家政改革が必要となり、藩札の発行など統治の強化を図ります。藩札の札元は大坂天王寺屋でした。この時期に、陣屋南部に札座が建築され、札座の向かいに天王寺屋の屋敷が建てられたと推定します。

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