若狭野陣屋の建築年代

若狭野浅野家陣屋

播州赤穂郡若狭野にある浅野陣屋跡は南北が60間、東西が20間ありました。北半分1600平方米は1937年に浅野家から若狭野地区に寄贈されています。残りのうち、畑が農地改革等で浅野家の手を離れました。南部が浅野家の所有地で、私たちが文化財として保存しようとしている札座は、陣屋の南東の隅にあります。江戸時代末期に建築され、陣屋に現存する唯一の建物です。稲荷神社は建て直されていますが、浅野家の守護神として江戸時代から陣屋に祀られてきました。須賀神社と薬師堂は、昭和時代に他所から移転してきました。

このページでは、札座の建築年代を考察します。

相生市史の浅野陣屋に関する記述は数行に過ぎません。第2巻468頁から全文を引用します。

若狭野村の陣屋は、室井好雄作詞の「若狭野里の歌」の一節に、『ゆかりも深き旗本の 陣屋の跡には須賀神社 東にまつる薬師堂 お稲荷様を西にして よろずの神様崇拝し』とうたわれているように、須賀神社・薬師堂・稲荷堂が並んでいるあたりに存在し、現在そこに「旗本三千石 浅野陣屋跡」という記念碑が建てられている。陣屋が設けられた当時は、陣屋とは名ばかりであり、延宝三年の陣屋定目の第四条にも「面々長屋火の元つねづね油断なく申し付くべし」と記されているように、「長屋」があるくらいのものであったらしい。「わかさの誌」によると本邸は六室からなり、内庭を有し、表門・庭入口門ほか三門で囲まれた宏壮な屋敷であったというが、屋敷図は現存していない。表門は現在那波野西法寺の表門として現存しており、これによって往時の陣屋をしのぶことができる。

相生市史の記述の後半は、小林楓村の「相生史話」(S28)、金田正男の「わかさの誌」(S52)を引用したものです。


若狭野陣屋の札座

平成初期の札座

今のところ、札座の建築年代を記述した文書は見つかっておらず、棟札も発見されていません。現状ではエビデンスのない推定ですが、建築年代について二つの説があります。一つは、金田正男「わかさの誌」の『建築年の記帳がないので、建築は始めて発行した札の前年度の文政四年(1821)と見做す』という考え方。もう一つは『藩札発行のためであれば大きな建物は不要、明治初年(1868頃)江戸から浅野長発が若狭野に帰り御殿等を新築したときに役場として建てた』という考え方です。今後、浅野家文書の研究が進む過程で文書が発見されたり、札座の修復工事の過程で棟札が発見されたりすれば、建築年代が判明します。

2007年、龍野歴史文化資料館が浅野家文書を相生市内で発見し、整理のうえ若狭野陣屋の絵図を公開しています。陣屋絵図が利用できるようになりましたので、二人の郷土史家、小林楓村・金田正男の著書を照らしあわせて札座の建築年代を考えてみました。


若狭野陣屋平面図

わかさの誌の陣屋平面図 左 明治初期 右 1980(S55)年作成

金田正男は明治30年代に生まれ、1977(S52)年に74才で「わかさの誌」を著しました。陣屋平面図は、1980年に追加されたものです。小林楓村はもう少し年長で、浅野長発の庶子浅野利三と鶴亀高等小学校で同級、明治33年に浅野陣屋の建物が売却された頃は小学生でした。売却前の浅野陣屋を見物に行ったことがあると書いています。この陣屋平面図は浅野家文書が発見される前に作成されており、浅野家文書の絵図とは異なる系統の情報に基づいたものです。


浅野家文書の若狭野陣屋図

浅野家文書の陣屋絵図 左は享和(1801~1805) 右は明治初年

2007年に那波の庄屋三木家で発見され、龍野歴史文化資料館が所蔵している浅野家文書に含まれる陣屋絵図です。左は享和(1801~1805)、右は明治初年(1868頃)。この間に、陣屋の敷地が南北に拡大され、建物が増設されています。明治維新によって若狭野に当主の浅野長発や家臣が江戸屋敷から若狭野に帰農し、御殿屋敷等を増設しました。札座もこのときに同時に建てたと考えれば、札座の建築は明治初年になります。あるいは、文政5(1822)年に藩札発行を含めて始まった政治改革にともなって札座や天王寺屋を建てたと考えれば、札座の建築は江戸時代末期になります。これから、札座の建築を江戸時代末期と推定する根拠を検討します。なお、建築の専門家によりますと、札座の間取りは江戸時代末期の西播磨に多い形式で、虫籠窓も江戸時代後期の楕円形であることから、建築様式としては江戸時代のものと考えても良いそうです。


若狭野浅野陣屋

わかさの誌38頁の浅野陣屋敷跡の記述は、元屋敷から始まります。「音池山の林山、今の墓所であったことが口碑で伝えている。石垣や古井戸の俤(おもかげ)が残っている」、前回、川の北側と推定していましたが、現地調査と聞き取りを行い、川の南側に墓所があったことがわかりました。藪のなかに石垣が残っています。現在、墓地は西に移転しています。浅野長恒が分家した頃は、赤穂藩が一括して統治して三千石の所領にみあう分を支給したいましたので、陣屋は小規模なものでよかったのです。なお、旗本の場合、当主は江戸屋敷に住み、所領に帰ることはほとんどありませんでした。

1701年、浅野内匠頭の刃傷事件により本家の赤穂藩が断絶したため、旗本浅野家は所領を自ら統治する必要が生じました。そこで、陣屋敷を現在地に移転し拡張しました。それが、浅野家文書の享和の絵図面です。わかさの誌と照合しますと、現在は東から来た旧道と旧本道が陣屋跡で途切れていますが、移転してきた陣屋は旧道と旧本道の間に設置されたのではないかと推定します。上の図の白四角です。享和の絵図面と広さが適合します。

相生市史は浅野陣屋について、次のように書いています。

陣屋が設けられた当時は、陣屋とは名ばかりであり、延宝三年の陣屋定目の第四条にも「面々長屋火の元つねづね油断なく申し付くべし」と記されているように、「長屋」があるくらいのものであったらしい。「わかさの誌」によると本邸は六室からなり、内庭を有し、表門・庭入口門ほか三門で囲まれた宏壮な屋敷であったというが、屋敷図は現存していない。

この文章には「陣屋は長屋があるくらい」と「本邸は六室からなり、・・・宏壮な屋敷」という矛盾した表現があります。しかし、わかさの誌を精緻に読みますと①延宝三(1675)年の陣屋定目は、赤穂藩の統治の実務を行ってくれていたので若狭野陣屋は小規模でよかった元屋敷のものであること ②宏壮な屋敷とは、赤穂藩断絶後に移転して拡張された現在の位置の陣屋であることがわかります。

では、「本邸は六室からなり、内庭を有し、表門・庭入口門ほか三門で囲まれた宏壮な屋敷であった」の根拠となっている大崎氏にあった図面とは何でしょうか。それは、上に表示した図面です。昭和10年に小林楓村が大崎鉄三氏の描いた図を写しました。小林楓村の相生史話、金田正男のわかさの誌ともに「玄関付きの本邸は六室で内庭がある。・・倉庫2、馬屋1、馬丁担所1、下部屋1、武器庫1、器具庫1、外庭園1、隠居所1」と記述しており、図面と符合します。

エビデンスのない推量ですが、この図面を本家の赤穂藩が断絶した直後に移転拡張した若狭野陣屋とします。時代は18世紀初期になります。それから、百年をかけて陣屋の整備が続き、19世紀初期の陣屋の様子を示しているのが今回発見された浅野家文書の絵図面です。


享和時代の浅野陣屋

大きな建物が二つあります。正面の建物には書院があり、身分の高い人のための建物であることがわかります。右の建物には土間や竈があり、家臣たちが通常の業務を執るために使われていたようです。建物の南には畑があり、陣屋の敷地の周囲を生け垣が囲んでいます。


浅野陣屋の変遷

左は享和(1800年頃) 右は明治初年(1870年頃)

1800年頃の陣屋は、南の旧本道と北の旧道に挟まれた敷地にありました。明治初年の絵図面では、陣屋が北と南に拡張されています。本道は札座の南に付け替えられ、札座と天王寺屋が向き合う交差点から南下して矢野川の石橋を渡って西国街道につながります。

陣屋中央部の建物は、明治維新で浅野長発が若狭野に帰農した時期に増築・新築されています。青い丸の建物は増築されて御殿屋敷、黄色の丸は新築された家老屋敷です。門の位置も変わっています。黄色の丸のなかにある建物は、従来の建物と東西軸が異なっています。グーグルの航空写真を見ますと、札座は真南を向いているのではなく、やや東南にぶれています。明治の陣屋改造にあたって新しい建物は真南を向くように建てたようです。

問題は、南にある赤い丸の部分(札座)と、北にある橙色の丸の部分がいつ建築されたかです。赤い丸で囲まれた札座および周辺の建物の東西軸は青い丸の建物と一致しています。明治初年に新築された黄色の丸のなかの建物の東西軸とは一致しません。このことから、札座は明治初年ではなく、それ以前に建築されたと推定できます。

以上のことより、浅野家が藩札発行など藩政改革を始めるにあたり、陣屋の統治機能を強化するための拠点として札座を建てたと考えてよいと思います。この建物は、一貫して札座と呼ばれています。また、小林楓村・金田正男の二人とも「札奉行が勤めていた」と書いています。札元である天王寺屋の屋敷は、札座の斜め前にあり、番頭が管理していました。天王寺屋の屋敷は土塀で囲まれていました。金田正男「わかさの誌」の『建築年の記帳がないので、建築は始めて発行した札の前年度の文政四年(1821)と見做す』という推論は的を射ているのかも知れません。


ここまで、絵図面を元に考察してきましたが、札座という文字が現れる文書はないものか?と探していましたところ、やっと見つけました。

若狭野陣屋の年貢米

小林楓村先生は、多くの資料を手書きで書き写しています。先生の残された資料を整理していて、2枚の断片を見つけました。2枚は一枚の古文書を書き写したものでした。そこに書かれた文字を活字にしました。縦書きを横書きにしましたので、アラビア数字に変えました。青字は計算するために私が付け加えました。浅野陣屋の年貢1536石がどのようにして売却・換金されたかをまとめた一覧表です。何故か、2カ所で0.001石の誤差がありますが、小数点以下第二位は計算が合います。若狭野の年貢が江戸・大坂・兵庫・地元で売却されていく様子が具体的な数値でわかり、すごく勉強になりました。

昭和29年発行に西播史談会が発行した「播磨」28号、小林楓村「若狭野陣屋に就き5」に、この資料が掲載されています。最後の日付は「文久亥斗戌12月12日」。文久亥斗戌は、文久2(1862 壬戌)年です。

この天王寺屋古文書のなかに、札座という文字が2カ所あります。したがって、札座は遅くとも、文久2(1862 壬戌)年には存在していたことになります。

小林楓村先生は、大坂天王寺屋すなわち松井安右衛門について「若狭野陣屋に就き4」のなかで、「私はこの松井氏に知ってもらひ、昭和7年頃、浅野氏古文書又藩札を数多く貰った文通していろいろ教えてもらった」と書いています。天王寺屋古文書には類似の文書があるはずで、その文書の研究が進めば札座の建築年代が明らかになるでしょう。

PDF版の資料を作りました 札座保存プロジェクト追加資料2017「浅野陣屋の変遷」

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