エッセイ02 2016年前期

「転」がすべて  2016.01

てまきねこを書くために「エッセイの書き方」を研究した。エッセイスト曰く「アマは自分が書きたいことを書くが、プロは読者が読みたいことを書く」。テーマの選択・論旨の展開において読者の好奇心を満たすような工夫をするらしい。別のエッセイストの言葉にすると「起承転結の転から考える、転がすべて」。

私もプロとして文章を作ることがある。授業のプリントは、私の書きたいことではなくて生徒に教えなければならないことを書く。時間はかけない。授業の進行に合わせると一枚のプリントを二時間以内に仕上げる必要があるからだ。

趣味の写真集を作るときは、好きなテーマを選んで素材を集め、文章にも時間を惜しみなく投入して自分なりに最善をめざす。完成した写真集は「こんな本、売れるのか」と言われるが、それでもネット経由でパラパラと注文がやって来る。目標は印刷費の回収、赤字の回避。
この文章はその中間、ライフに掲載されるという縛りがあるので紙面にふさわしいテーマを選ぶ。難しいのは読者の設定。授業のプリントは高校生が理解できるように、写真集の本文はテーマに関心と知識のある人が読んで面白いと感じるように書く。てまきねこは?
 縛りがあるのでプロの仕事のようだが、授業用プリントとは比較できないほど時間をかける。私的(わたしてき)には、てまきねこは趣味の範疇(はんちゅう)の作品になる。今年も、季節感があって、少し社会性があって、自分が扱ってみたいというテーマで、かつ、読んだ人が「なるほど」と共感するような転(新しい視点)のあるエッセイを書き続けられたら良いなと思う。
蜘蛛の糸(くものいと)  2016.02

お釈迦様が地獄におちたカンダタのために蜘蛛(くも)の糸を垂らしてやる。カンダタは蜘蛛の糸を登っていくが、あとに続く亡者たちに「お前たち、ついてくるな」と言ったので蜘蛛の糸は切れてしまい、お釈迦様はさびしい顔で立ち去った。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は、地獄に仏となるはずであった盗賊が品性卑しさのために地獄に逆戻りする話とされています。しかし、お釈迦様の行動はこれでよいのでしょうか。「元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅ましく思い召されたのでございましょう」。愚かな人間の行動を見て「浅ましく思う」境涯が仏界であるとは思えません。お釈迦様は仏界を離れてしまわれたのです。

天台大師智顗(ちぎ)は一念三千論を説きます。我流の解釈では「過去・現在・未来のそれぞれに仏界から地獄界までの十界があり、三×十×十×十の三千世界が一瞬の心のなかに存在する。常に仏界に近づくように努めよ」。腹が立つとき、怠けたいとき、否々(いやいや)これではだめだ、より上の境遇を目指そうというふうに自分の心を制御します。

お釈迦様は仏界にいるから蜘蛛の糸を垂らされました。でも「浅ましく思われた」瞬間は人間界きびしく云えば地獄界だったのかも知れません。一瞬の後には再び仏界に戻って歩き去るのですが、一瞬の心の揺らぎ「仏に地獄」こそ、芥川龍之介が描きたかったことではないかと思うのです。お釈迦様にしてそうなのですから凡夫の心が揺れ動くのは仕方がないのですが、平均的な人間界ではありたいと願って生きています。

仰げば尊し   2016.03

一昔前、卒業式の式歌は「仰げば尊し」と決まっていたが、近年は「贈る言葉」や「旅立ちの日に」が増えているようだ。

学年主任をしていたとき、私の学年の卒業式は「仰げば尊し」を式歌にしようと思い立ち、歌詞や歌い方を調べてみたことがある。この曲は三コーラスで、一番は卒業生の師への感謝、二番は師の卒業生への説諭、三番で学校生活を振り返り「今こそ分かれ目いざさらば」で終わる。一番は卒業生、二番は教師、三番は両者で歌う構成になっているのである。生徒に尋ねてみると、ある中学校一校だけがそのように歌っていた。

「仰げば尊し」が姿を消した原因の一つとして、二番の「身をたて、名をあげ、やよ励めよ」がある。立身出世は時代にあわないという教師がいるらしい。「身をたて、名をあげ」を否定するのなら、卒業生の有名人を学校紹介に掲載するのは止めたら、と皮肉の一つも云いたくなる。が、問題の根っこはもっと深いところにある。

「信頼されている・期待されている」という自覚は生きるエネルギーとなる。であるなら「信頼しているよ・期待しているよ」というメッセージを送り続けることは、師が弟子に対して行う大切な責務の一つである。教育という営みは卒業式まで続く。だから、先人は「身をたて名をあげ、やよ励めよ」という歌詞を作ったのだろう。二番を必要とみるか不要とみるかに、先生の教育観が反映しているように思う。

「仰げば尊し」を、一番は卒業生が、二番は教師が、三番は全員で、と正しく理解して歌っていた学校は、旧制師範の流れをくむ大学の付属中学校であった。

唐端清太郎  2016.04

江戸時代初期、西播磨に赤穂藩・龍野藩・山崎藩・平福藩が設置される。四つの藩は変遷を重ね、戦後の赤穂市・龍野市・山崎町・佐用町になった。一方、江戸時代の相生(あいおい)は赤穂藩の辺境に過ぎず、相生市は藩を母体としない珍しい自治体なのである。

相生が近代都市に成長したのは、唐端清太郎(からはたせいたろう)の努力に尽きるといってもよい。一八八九年、町村制の施行とともに相生(おお)村が発足したが、村政は混乱を極めた。村の有力者は、赤穂郡の書記であった唐端清太郎を村長に招聘(しょうへい)する。時に三十歳、唐端は二十年余りにわたって村長を務めながら、県会議長に就任するなど阪神政財界で活躍し、村役場には不在がちであった。

一九〇七年、地域の未来を託して播磨船渠(せんきょ)を設立、一九一六年、鈴木商店の資本導入に成功、この間に町制を施行した。唐端は村長になる前の一八八八年、『町村制度未来(あした)の夢』を上梓(じょうし)している。「経費は余計要(い)るとも効能の比較的に多い事を企画(やら)ねばなりません」という一節は、積極的な村政を連想させる。

この本に、家出してでも大阪の梅花女学校に進学しようという十六歳の女性二人が登場する。当時、県内の女学校は神戸女学院しかなかった。『あさが来た』のモデル広岡浅子が日本女子大設立に奔走するのは十年も後のことである。唐端のペンネームである雨香(うこう)散史(さんし)は二人にこう語る。「貴嬢(あなた)方が学問なさるに就いても・・独立の思想を養成(やしな)い・・婦女の品格を昇(たか)めて真正(ほんとう)に女権(じょけん)の拡張を計りなさるが肝要です」。

唐端の斬新な発想がわかるとともに、この青年を招いて村政を委ねた有力者の見識がうかがえる。

日本史まなびツーリズム   2016.05

六〇年代後半、造船ブームに沸く相生から龍野高校に通った。龍野は眠ったような町で、何もない城跡に小さな図書館があった。今、龍野城は再建され、観光客が町なかを歩いている。

二月発行の「はりま読本」を見ると、忠臣蔵の赤穂・小京都の龍野と続き、相生は出てこない。相生の現状を象徴しているようだ。

成長の時代は終わりを告げ、人々はアイデンティティを求めて歴史を振り返る時代になった。城下町ブームはその典型である。が、相生には城がない。でも、ものは考えようで、城があると思考は城下町で停止してしまう。城がないと模索を続けざるを得ない。

たどりつくのは、皇室領矢野荘。東寺百合文書が世界記憶遺産に登録されて文書での地位は確立した。矢野荘の中心部であった若狭野町は、市街地から離れていて荘園の面影を色濃く残している。歴史的な知識を学んで若狭野を歩くと、神社・寺院・山城と中世の様子を思い起こすことができる。

現在、中世の荘園をルーツとすると称している都市はない。私たちが「相生は皇室領矢野荘の末裔である」と自覚すれば、日本初の荘園都市になることができる。相生には古代から近代まで小都市には珍しいほど歴史遺産が蓄積されている。組み合わせとポジショニングを考えて通好みの観光地に仕立ててみよう。名づけて「日本史まなびツーリズム」。

江戸時代が弱かったが、浅野陣屋というミッシングリンクがあった。陣屋には札座が現存し、関連史料が相次いで発見されている。陣屋から三濃山へのコースは無限の可能性を秘めている。

琴棋書画  2016.6

古代中国の貴族の教養は琴棋書画(きんきしょが)であった。日本もこれに倣(なら)い、日光東照宮の陽明門に「君主の四芸」の彫刻がある。

琴棋書画は学校教育に受け継がれて、音楽・書道・美術になったが、棋(囲碁)は消えて代わりに体育が入った。西洋の学校教育に囲碁はなく体育があったかららしい。欧州の支配階級は身体を鍛えたが、中国では知性による国家統治が理想とされ、上流階級は囲碁という知的スポーツを楽しんだ。

音楽・美術・書道・体育という趣味系の教科に対し、国語・数学・理科・社会・英語は実用系の教科である。生活の糧を得るために進学をめざす入試においては英数国などが重視され、こちらの成績が良い人が「頭が良い」と評価されるが、それは収入を得るまでのことである。

生活が安定すれば、楽器が演奏できたり、絵が描けたりする方が人生は豊かになる。私は、英数国はできるが音美書はできないタイプだったので、音美書ができる方が恵まれているように見えてしまう。

残念に思うのは、音美書ができない原因が、才能がなかったのか、教えられ方が悪かったのか判然としないことである。「できるようにならないなあ」と何年も悩んだすえに、良い恩師にめぐりあって急速に上達した経験が二つある。英語と囲碁。初歩的なつまずきを個人指導で修正してもらってから、平均的な人よりは上手くできるようになった。

教室の集団授業で教えられることには限界がある。どうしても上達したいなら、個人で礼を尽くして教えを乞う勇気が必要だ。生徒の姿勢が先生の実力を引き出すのである。

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