エッセイ01 2015年後期

兵隊さんのお墓  2015.09

小学生の頃、毎年、お盆になると田舎へ墓参りに行った。昭和三十年代のことで、墓地には真新しい兵隊さんのお墓が並んでいた。当時の私は兵隊さんの階級に興味があった。

あれから半世紀が経ち、真新しかったお墓も周囲になじんできた。幼かったときには見逃していたが、お墓には戦死した年月日と場所が刻まれている。昭和十九年後半から二十年にかけてが大半で、戦没地はフィリピンが多い。昭和十九年、姫路第十師団が満州からルソン島に移り壊滅したためである。

昭和十九年六月のマリアナ沖海戦に敗北した後、制空権を喪失した日本軍はゲリラ戦に戦術を転換したので戦死者が急増し、やがて本土が空襲されて多くの市民が犠牲となった。最初のゲリラ戦となったのがペリリュー島の戦いで、今春、天皇が平和の祈りを捧げられた島である。

高校で日本史を担当していた頃、第二次世界大戦をどういう視点で教えるか考えたことがある。私が拠り所としたのは国際政治学者、高坂正尭の文章の一節であった。「中国への侵略開始以来、日本は泥沼にはまり始め・・自らの力ではそこから脱出できなくなっていた・・自らの運命を統御する能力を日本は失っていたのであり、相手が避けてくれなくては衝突する自動車のようなものであった」

戦争を避けることはできなかったのか、戦争に突入してしまったとしてもマリアナ沖海戦敗北以降の戦争継続に何の意味があったのか、など考えることは多い。戦後七十年を経て、私たちは「自らの運命を統御する能力」を身につけることができたのだろうか。

眠くなる本  2015.10

自分の理解できない本を読もうとすると眠くなる。若い頃、読みかけては睡魔に襲われた本がハイデッガーの『存在と時間』、書いてあることがまったく理解できないのである。

理解できない本には二種類あって、一つは、執筆動機はわかるが内容が理解できない本。航空機を設計するための技術書は、私の学力では理解できないけれども著者の意図はわかる。もう一つは、この本は何のために書かれたのかと不思議に思う本である。『存在と時間』は後者の典型であった。

それから三十年が過ぎたある日、哲学の教授と話す機会があったので「先生、ハイデッガーは何故あんな本を書いたのですか」と質問してみた。教授は言う「私はハイデッガーの専門家なのだ。君の疑問に答えてあげよう。世の中には、現実(リアル)に漠然とした不安(ポエム)を抱く人がいる。リアルとポエムを直感的に繋ぐ人を詩人、論理的に繋ぐ人を哲学者という。君は現実を肯定してしまい、不安を抱かないから詩も哲学も必要ないのだ」

高校の倫理にはハイデッガーが出てくるので授業のために『ネコでもわかる哲学』を読む。「人間は自分の死だけは他人に代わってもらうことができない。だから、死が自己の存在を証明する」と書いてあるらしい。これだけのことを言うために、あの難解な本を書いたのか。

この話をすると、家内は「あんたが面白くない人間だと思ってきた理由がわかった」と言う。女子生徒は「先生が理解できないという『存在と時間』を読んでみる」と言う。今、彼女は大学で微生物を研究しているらしい。

矢野荘との出会い  2015.11

十年ほど前、相生の町のアイデンティティは何だろう?と尋ねられた。「播磨造船所と矢野荘(やののしょう)かな」と答えると「矢野荘について話してくださいよ」とリクエスト。それが、私と矢野荘の出会いである。

私は高校で世界史を担当しているので荘園には詳しくない。そこで、相生市史を読み、市内を歩いてみることにした。相生市は矢野荘と同じ領域にあり、若狭野の大避(おおさけ)神社や那波の大島城など荘園の歴史を物語る史蹟が点在している。荘園の研究者が「宝石箱」と賞賛するのもうなずける。

矢野荘の成立を振り返ってみよう。十一世紀、普光沢川(ふこさがわ)流域が開発されて藤原顕季(あきすえ)の所領となり、孫の美福門院に受け継がれる。彼女は鳥羽上皇の皇后になると、一一三七年、自分の所領を正式の荘園にする手続きをとって皇室領矢野荘を成立させた。

ここで、一つ疑問が湧く。相生北部の矢野川流域には優良な田畑があり、古代から公有地となっていた。この土地はいつの間に矢野荘の一部になったのか。

今年になって、やっとその謎が解けた。美福門院は鳥羽上皇の皇后という立場にものを云わせて、矢野川流域の公有地を自分の荘園に取り込んだのである。こうした荘園を領域型荘園といい、まだ高校の教科書には登場していない新しい用語らしい。

鎌倉時代室町時代を通じて、矢野荘では領主・悪党・地頭・農民らが生活をかけた争いを繰り広げる。こうした記録は東寺に大切に保管されてきた。相生は歴史に恵まれた町なのである。

東寺百合文書の世界記憶遺産指定を契機に、故郷の歴史の再評価が進むと良いなと思う。

相生の観光地 皇室領矢野荘

荘園都市あいおいには、日本史の歩みが結晶しています

お正月と経済成長 2015.12

子供の頃、師走は一年で最もワクワクする月であった。ジングルベルが流れ、パン屋にケーキが並ぶ。福引きが始まり、景品の凧(たこ)をもって山に登る。

大晦日は人で溢れ、紅白が始まる頃に大掃除が始まる。年越しそばの出前が来て、子供たちはうどんを食べ、行く年来る年の鐘の音を聞きながら眠りにつく。翌日から商店街は長いお休み。おもちゃ屋さんだけが店を開いていた。それがお正月の原風景。

七十年代もそんな感じで、正月といえば酒と麻雀に耽(ふけ)っていた。様子が変わり始めたのは、八十年台に入ってから。三が日というのに「明日は仕事」という声が聞こえ始めた。それは、スーパーから始まり百貨店・コンビニへと広がって、年中無休・二十四時間営業という店まで現れた。客は便利さを求め、店は利益を求め続けた結果である。

でも、私たちは幸せになったのだろうか。元日の朝、家族そろって年神様をお迎えできたことを喜ぶことこそ幸せではなかったのか。

イスラム教はラマダンの一ヶ月、昼間は食事をしないという教えを守り続けている。新しく現れた宗教であるイスラム教が厳しい戒律を守り続けていることは興味深い。一方、日本は家族団欒(だんらん)を犠牲にして利益を追求しているにもかかわらず、経済は成長しなくなってしまった。八百万(やおろず)の神が「考え直せ」と語りかけているのだろう。

ここ三十年、我が家の大晦日はてっちりを囲む慣例になっている。床の間には餅花、テレビでは相変わらず紅白歌合戦。懐かしい歌をききながら、長生きしたなあと実感するこの頃である。

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