記念館設立に向けて 2016年春の活動

2016.03.22

浅野陣屋保存ネットワークの活動の始まり

浅野家若狭野陣屋

2015年末、若狭野陣屋が相生市に寄贈されるという噂を聞きました。相生市には唯一といってよい江戸時代の武家の遺構です。当然、相生市が寄贈を受け、貴重な文化財として修復保存に乗り出すものと喜んでました。ところが、相生市は寄贈の申し出を断ったというではありませんか!そんな馬鹿なと思いましたが、相生市には文化財保護審議会もあることですし、地元には有力者も多く住んでおられるのですから、保存の方向に行くだろうと思っていました。

それから、三ヶ月、春が来ても、相生市は動かず、地元の人たちにも保存の動きはなく、このままでは解体されてしまいそうでした。誰も手をあげないのなら、私が一人でも保存活動を始めると決意して、3月22日、菩提寺に来られていた浅野さんにお会いし、一年間の時間をいただくことができました。こうして、私たち二人で保存運動が始まりました。毎日のように参加者が増え、運動体の形を試行錯誤したうえで「ネットワーク」になりました。

保存運動は「ネットワーク」という緩い連合体で進んでいます。ネットワークに加わってくださった方、支援してくださっている方は市内だけでなく全国に広がっています。名簿も、指示系統もありません。志のある個人が形成するネットワークです。

新年(2017年)を迎え、So-netからワードプレスにホームページを移転したことを契機に、2016年の活動をまとめてみました。


2016.03.23

最後の札座が消えようとしています [浅野陣屋の札座]

相生市の若狭野にある札座です。江戸時代末期に立てられました。旗本浅野三千石の陣屋跡に残る唯一の建物です。それだけでも価値のある建物ですが、札座(さつざ)としては日本唯一の遺構です。ネットで「札座」を画像検索しますと、この建物だけがヒットします。

札座とは江戸時代に藩札を印刷したり交換したりした建物を言います。外にも残っているのかも知れませんが、ネットで検索する限りではこの建物だけだと思います。そういう点では、貴重な建物だと私は思っています。

しかし、この建物の価値は評価されることなく、文化財として登録されることもなく、老朽化が進み静かに消え去ろうとしています。「この建物を残したい」という気持ちを込めて、しばらく、札座について書き続けます。


2016.03.24

浅野陣屋札座の歴史

若狭野陣屋札座

西播郷土史の先駆者、小林楓村先生の「相生史話」に若狭野藩札の記事があります。この記事を元に札座の歴史をまとめてみました。

浅野陣屋の藩札発行は1822(文政5)年に始まりました。4代浅野長致の時代です。藩札の発行元となる商人を札元といい、札元の信用が藩札の流通を支えていました。浅野陣屋の札元は大坂の天王寺屋です。藩札は通常、札元が大坂で銅版を作り、藩の者が札座で印刷します。陣屋の札座には札奉行がいつも勤務しており、札座のななめ向かいに大坂の本店から赴任してきた天王寺屋安右衛門(松井安右衛門)が住んでいました。

旗本浅野家の当主は江戸屋敷に住んでいました。3000石クラスの大身旗本は約200人です。彼らは江戸に住み所領に戻ることなく、奉行など幕府の要職を歴任しました。重臣も江戸住まいで、家政の中心は江戸にありました。しかし、江戸時代後半になって所領の経済が発展してくると、陣屋の機能を強化する必要が生じ、地元の有力者を家臣に抱えて在地代官として支配を委ねるようになっていきすま。若狭野浅野家でも、1822年の藩札発行を初めとする家政改革がおこなわれました。札座はこの時期に所領経営の拠点として建築されたと推定できます。

幕末の動乱のなか、明治初年、7代浅野長発や江戸詰の重臣たちが若狭野に帰ってきます。そして、陣屋の中心部に御殿屋敷を増築したり新築したりしました。1871(明治4)年、廃藩置県が行われました。明治政府は藩札を回収して新紙幣・新貨幣に交換するよう命令し、1879(明治12)年に全国の藩札の処理を完了させます。

札座は役目を終えて、空き家となったと思われます。ここに上郡から福本剛策が転居してきます。福本家は代々医を業としており、剛策は本家の再興を果たすと本家の息子にすべてを譲り、札座に引っ越してきたのです。陣屋の当主長発と剛策は詩文で行き来がありました。大山郁夫は、1880(明治13)年に剛策の二男として札座で誕生、小学校卒業まで若狭野で育っています。

1888(明治21)年、浅野家8代の長三郎が家督を継ぎます。1892(明治25)年頃から長発は高価な愛玩鳥の養鶏に手を染め、この事業の損失で浅野家は傾き始めました。資産の切り売りが始まり、陣屋門は1894(明治27)年に那波野の西法寺に売却されました。札座は1897(明治30)年頃に法界庵という真宗の道場に変わります。法界庵は従来の建物が老朽化したため札座を購入して移転してきたもので、仏像を安置するための改造が施されました。

1900(明治33)年頃、浅野家は事業の損失を埋めるため道具類を売却しました。長三郎は負債を清算し朝鮮に渡ります。浅野家の家督は娘が受け継ぎ、西宮に移りました。

陣屋の屋敷がどうなったのか、楓村先生は書いていません。現在、陣屋の屋敷跡は空き地となっています。陣屋の北部は、1942(昭和17)年、浅野家から若狭野地区に寄付され、須賀神社・稲荷堂・薬師堂が祀られています。

札座を改装して真宗の道場となった法界庵ですが、やがて廃寺となり、住民の集会所として使われるようになりました。しかし、近年、老朽化が激しく雨漏りするようになりました。仏像は公民館に移されて、札座(法界庵)は空き家となって現在に至っています。

ふり返ってみますと、本来の役目を終えて法界庵として再利用され、引き続き集会所として使用されていたおかげで、幸運にも札座は今まで残ってきました。1822(文政5)年の藩札発行時から数えれば200年近く、幕末から数えても150年の歴史を持つ由緒のある建物を生き永らえさせてやりたいものです。


2016.03.25

大山郁夫は浅野陣屋の札座で育ちました

大山郁夫が育った家

相生市若狭野にある日本で唯一現存している札座の建物が消え去ろうとしています。

大山郁夫は、1880(明治13)年に上郡で生まれ、この建物で幼少期を過ごしました。

以下は、1957年に発行された大山郁夫伝の記述です。

大山は汽車で山陽線を通るたびに、「あれが僕の生まれた家だよ」と、なつかしそうに車窓の北側を指さしたという。なるほど、ほんの一瞬のことだが、相生と宥年の間に、銀杏と白壁のある家が見える。飛ぶように過ぎてゆく車窓風景のことだから、郁夫の生家を見分けるのは、よほど見馴れていないとむずかしい。

生家は低い丘陵の麓にある。だらだら登りに白い坂道をのぼりきると、突き当たりに低い土塀にかこまれた瓦ぶきの家が見える。これが郁夫の生家だが、付近は藁ぶきの百姓家が多く、白壁と瓦のこの建物は際だっている。いかにも医者が住みそうな由緒あり気な家の構えである。生家の門ロヘ立つと、眼の下に若狭野三千石の沃野が 一目に見わたされる。

郁夫の生家は建坪四、五十坪もあろうか、田舎の建物としては宏壮な構えだが、細長い四角な建物で、住居としてはなんの趣きもない。それもそのはずで、この建物は旧幕時代に浅野家の藩札の製造所であった。いまは真言宗の庵寺になっているが、一世紀にあまる歳月の経過にも、小ゆるぎもしない頑丈さを保っている。まっ黒に煤けた大黒柱や木目の浮かんだ分厚い縁側は、手織木綿のようなごつごつした美しさがあった。

郁夫の生家のすぐ裏手には、浅野家の屋敷跡が草にうずもれて残っている。浅野家というのは江戸の旗本で、若狭野三千石はその知行所であった。郁夫の父が上郡から移ってきたころは、まだ浅野の当主が屋敷に住んでいて、詩文の趣味があるところから、剛策と親しく往き来したということである。

「大山郁夫伝」がこのように記述していますので、大山郁夫が札座で生まれたと書いている資料も多くあります。福本家の御子孫の調査によれば、郁夫は上郡で生まれ、小学生時代を若狭野陣屋で過ごしたということです。

大山郁夫が育った家

1957年に刊行された大山郁夫伝は、このように記述しています。

生家は低い丘陵の麓にある。だらだら登りに白い坂道をのぼりきると、突き当たりに低い土塀にかこまれた瓦ぶきの家が見える。これが郁夫の生家だが、付近は藁ぶきの百姓家が多く、白壁と瓦のこの建物は際だっている。

この文章のイメージにあう写真を写してきました

郁夫の生家(正確には、幼少期を過ごした家)は正面が少し見えています。
浅野陣屋の札座であった建物で、福本家はこの建物に借り住まいしていました。
左手の土塀の屋敷は、札元である大坂天王寺屋の屋敷です。
郁夫が列車から見た頃は、江戸時代の屋敷が残っていました。


2016.03.26

浅野陣屋が旗本研究の最先端に

若狭野陣屋の藩札(札切手)

若狭野浅野陣屋の藩札(札切手)。文政5(1822)年11月に初めて発行したときのものです。写真は同じ藩札の裏表で、大きさは縦15センチほどあります。銀札と銭札があり、これは銀一匁です。

裏面に切手引換所として引受・大坂天王寺屋と書いてあります。

藩札は大坂で銅販を作り藩で印刷します。有力者や商人の家で印刷することが多いのですが、浅野陣屋は専用の札座を建てました。天王寺屋から派遣されてきた松井安右衛門は、札座向かいの屋敷に住んでいました。


近年、関西大学から津田秀夫文庫の資料が公開されました。

関西大学学術リボジトリ  http://hdl.handle.net/10112/2261

このなかに、播磨国赤穂郡若狭野・浅野隼人家関係文書が含まれています。2007年、東北大学の荒武賢一朗准教授がこの文書に関する最初の論文を発表しました。

関西大学学術リボジトリ  http://hdl.handle.net/10112/2261 からリンク有り

荒武賢一朗准教授は、この文書が新たな研究領域を開くと記述されています。
『本史料群の存在が明らかになったことによって、これまで研究蓄積が少なかった畿内・近国旗本知行所の研究、および旗本家の財政・年貢米廻送などの分野に大きな前進がみられるものと自負している。また、前号で紹介された「松代藩真田家大坂御用場関係文書」のほか、いくつかの大坂御用場に関する諸史料の発見が認められるが、旗本レベルでの研究は未開拓の分野であり、今後研究を深める重要な手掛かりとなろう』

若狭野は中世矢野荘の中心部で、中世に関しては「東寺百合文書」という世界的な古文書があり、中世研究者にとっては最も有名な地域の一つでした。今回、近世に関して播磨国赤穂郡若狭野・浅野隼人家関係文書が発見されたことにより、近世研究家の注目を集める地域になるかも知れません。

論文によると、本史料群に登場する主な人物は次のとおり
江戸屋敷
家老・前田剛右衛門
用人・川端彦次郎、同・坂田伝治、同・里村清右衛門
若狭野陣屋
大崎牧之丞、尼子廉蔵
大坂御用場
天王寺屋(松井)安右衛門→大坂麹町
用達
天王寺屋安右衛門(大坂) 、紀伊国屋弥右衛門(堺)

彼らが活躍した場の一つが浅野陣屋の札座です。現存しているのは、おそらく、ここだけでしょう。浅野陣屋の札座は、江戸時代後期、旗本の領国経営研究のフィールドとして歴史的価値を有しています。


札座(庵寺としては法界庵)の内部 [浅野陣屋の札座]

若狭野陣屋の内部

3月26日、風を通しに行きました。もう一カ所、雨漏りを発見、屋根の応急修理を依頼しました。

明治から昭和にかけて庵寺となっていましたので、仏像を安置するように改造されています。廃寺になってからは集会所となり、土間が部屋に改築されています。だから、文化財としての価値がないと判断されたようです。

この建物は江戸時代の間取り図が見つかっていて、復元することはできます。江戸時代への復元コースをとるか、広い間取りを活かしてギヤラリーや資料館にするか考えるところです。とはいえ、その前に、耐震化などこの建物を存続するための手当ができたら、の話しです。

遅くとも、一年以内に、存続か解体かの結論を出します。

正面に懸かっている茶色の木札は、大正10年の法然上人遠忌で庵寺に寄附された方々の名前を記したものです。綺麗に残るものだと感心しました。札座から庵寺になり、こうした人々の努力で永らえてきた建物を残したいと思います。平成29年3月、新しい木札が並ぶことを目指して保存運動を始めます。


2016.03.28

浅野陣屋札座保存プロジェクト

若狭野陣屋

1990(平成2)年の浅野陣屋です。兵庫県相生市の若狭野にあります。写真は前方の一部で、後方の樹木に隠れたところに屋敷跡や神社が広がっています。

写真中央の大きな建物が江戸時代の札座(庵寺としての名は法界庵)です。この写真の頃は集会所として使われていました。それから25年が経過し、札座は雨漏りのため使用されることはなくなりました。 老朽化した札座は、歴史的価値を認められることなく、文化財として登録されることもなく、静かに姿を消そうとしています。

しかし、この10年、浅野陣屋に関する重要な文献が発見され、札座を含む浅野陣屋は先端的な研究の舞台となっています。

一つは、浅野陣屋から明治時代に相生市那波の庄屋に嫁いだ方を介して三木家に伝わった赤穂浅野家資料です。

忠臣蔵で有名な元禄事件で改易された浅野赤穂藩の資料は失われたものと思われていましたが、分家である若狭野浅野陣屋に伝わり、2006年に発見されました。2009年末、江戸東京博物館で「旗本がみた忠臣蔵-若狭野浅野家三千石の軌跡-」が開催され、そのホームページに札座の写真が紹介されています。

もう一つは、関西大学の津田秀夫文庫として公開された播磨国赤穂郡若狭野・浅野隼人家関係文書です。2007年に東北大学の荒武賢一朗准教授によって論文が発表されました。荒武准教授は「本史料群の存在が明らかになったことによって、これまで研究蓄積が少なかった畿内・近国旗本知行所の研究、および旗本家の財政・年貢米廻送などの分野に大きな前進がみられるものと自負している」とされています。

この文書は、浅野陣屋江戸屋敷・若狭野浅野陣屋・大坂天王寺屋の間で取り交わされた文書です。大坂天王寺屋が銅版を作り、若狭野で藩札を印刷しました。そのために建築されたのが札座です。

さらに、明治13年、大山郁夫が札座で誕生しています。大山郁夫は大正デモクラシーで活躍、その後左派無産政党である労働農民党の委員長となり「輝ける委員長」の愛称で親しまれました。大山郁夫伝は「郁夫の生家は建坪四、五十坪もあろうか、田舎の建物としては宏壮な構えだが、細長い四角な建物で、住居としてはなんの趣きもない。それもそのはずで、この建物は旧幕時代に浅野家の藩札の製造所であった」と記述しています。

江戸時代に建築され、二つの重要な文書に関連し、大山郁夫の生家でもある建物が現存しているにもかかわらず、「歴史的価値はない、文化財としての価値もない、保存に費用がかかる」という理由で取り壊されてしまうのは何としてもおかしい。今年(2016年)の3月22日、私たち二人は建物の所有者にお会いし、「浅野陣屋記念館」として保存する取り組みのために時間をいただきたいとお願いしました。

所有者の方は、地元の相生において、この建物の価値を認めて保存に取り組むスキームが立ち上がることを望んでおられます。

それから一週間、このブログを作り、雨漏りを防ぐ応急処置の手配をしました。どのようなスキームにするかも考えました。 期間は一年、来年(2017年)の3月31日までに「浅野陣屋記念館」を実現できなかったら、私も諦めます。御支援をお願いします。

連絡先 保存会が立ち上がっていませんので、私に連絡をお願いします

Mail matunko@aioi.name   Phone 090-5016-4520 松本恵司


2016. 3. 31

有年駅と札座の保存について

有年駅
浅野陣屋から西に1キロ余りのところに有年駅があります。駅舎は、明治23(1890)年に開業したときのものです。老朽化に伴い、新駅舎の建設が進んでいます。

3月23日の神戸新聞によりますと、現駅舎は解体される予定でしたが、JRが赤穂市に存続の相談を持ちかけ、赤穂市は「多くの住民が望まないと難しい」としているそうです。

結末がどうなるかはわかりませんが、有年駅舎は存続が新聞で話題になっています。一方、若狭野陣屋の札座は、保存が話題になることすらないまま、静かに姿を消そうとしています。

有年駅舎は明治で県内に現存する最古の駅舎、札座は江戸末期で日本に現存する唯一の札座です。 文献では、札座は「播磨国若狭野・浅野隼人家文書」の舞台となった建物です。この文書により、大坂天王寺屋と若狭野浅野家の関わりが明らかになり、旗本の経営という未開拓の研究分野が広がろうとしています。 二つの建物の歴史的価値で、札座が劣るということはないと思うのですが。

市境の東西どちら側にあるかによって、明暗を分けるかも知れない札座と有年駅。一年後には、どうなっていることでしょうか。 住民の希望により有年駅が、私たちの踏ん張りで札座が、両方とも保存できたら嬉しいですね。


2016. 4. 01

大正瓦と江戸時代の瓦 [浅野陣屋の札座]

若狭野陣屋

札座保存にはいろいろな人が参加してくれています。私は歴史屋なので文字から見てしまうのですが、大工さんや園芸屋さんは別の観点から見ますので、少し話すだけで勉強になります。札座の屋根を見て、「この屋根の反り方がおもしろい。普通とは逆」。そう言われてよく見ると、外になるほど傾斜が急になっています。この造り方は凝っているそうですが、屋根に上がるのは技術がないと無理だと言います。別の人は「この瓦は大正瓦です。大正時代に屋根を葺き替えてますね」

若狭野天王寺屋の瓦

こちらは、天王寺屋の屋敷に使われていた瓦で、江戸時代の瓦だそうです。大正時代の瓦と江戸時代の瓦の違いを説明してもらいました。

若狭野陣屋の内部

札座は江戸時代の建物なのに、大正瓦が使われています。ということは、大正時代に屋根の葺き替えが?と建築に詳しい人が言います。こういう謎解きは、歴史屋の守備範囲です。

鴨居の上に掲げている木札。大正10年の法然上人遠忌の寄附の記録です。10円以上が並んでいます。当時の10円は初任給と同じくらいの価値がありました。ずらっと並ぶ木札からかなりの金額が集まったようです。屋根の葺き替え費用と考えてよいのではないかと思います。

1820年代の建築として、大正10年=西暦1921年までが約100年。それから、2016年までで約100年。今回は、屋根の葺き替えまでできるでしょうか。まず、耐震化工事費用を集めなくては。


2016. 4. 2

若狭野浅野家文書発見の経緯

浅野陣屋札座保存会設立準備グループが発足しました。前々から、浅野陣屋の保存に関心を持ち「相生歴史研究会の会長が口火を」と言っておられた方が2名加わり、人数は片手を超えました。

プロジェクトは相生歴史研究会とは直接の関係はありません。私が、いろいろなものに手をだしているなかの一つが相生歴史研究会会長です。プロジェクトのめざす方向が、歴史研究会と一致するものでもありません。プロジェクトの最終到達点は模索中、確実なのは「第一段階として、札座を残したい」だけです。

とんび岩通信という相生市の新聞記事をアーカイブしているサイトがあります。上の写真は、とんび岩さんが撮影したもので、大銀杏と倉庫があった頃のものです。

とんび岩通信に、2007年1月19日、若狭野浅野家文書が発見された経緯を書いた記事がありました。

当時、相生市議会で陣屋保存に関する質問があったようです。サイトによれば、教育長の答弁は以下の通りです。 10年前の記事である。新聞記事の転載である。ということでお読みください。

「この件につきましても、やはり浅野陣屋付近でございますけれども、浅野陣屋跡、それから、その周辺を歴史公園として位置づけまして、保存並びに整備を図ればという御提案でございました。陣屋跡には、ただしどのような建物が、どの範囲に建っていたのかを確認できますのは、札座でございますね、藩札をつくっておりました建物があった法界庵、これと浅野陣屋、おっしゃいましたように、那波野の西法寺の表門として現存しております程度で、他の建物等につきましては詳しくわかっていない状況でございます。整備計画につきましては、現在のところ、この周辺の整備計画等につきましては白紙で、教育委員会としては考えております。 先ほどもおっしゃられましたように、観光施設として成り立つのかどうかという点も含めて、これはいろんな角度から考えなければならないのではないかと思っております。それから、当然ながら財政面におきましても、その観点からも考えなければならないことである、このように考えておるところでございます。」


2016.4.02

桜が咲きました

旗本浅野家の陣屋跡

札座に風を通しにいきました。桜が咲いています。

旗本浅野家の若狭野陣屋跡

御殿屋敷跡は神社の境内になっている

札座の北にある浅野家のお屋敷跡です。今は広場になっています。


2016. 4. 2

古民家再生の体験を聞きました

矢野荘から一山越えた三日月町に、古民家再生の話をうかがいに行きました。長年、古民家再生に取り組んでこられたNPOの方と、古民家再生をやってみたという工務店の方に聞きました。

再生された古民家。再生に取りかかる前の写真を見ると、ひどい状態で、あれがここまで再生できるのかと思いました。疑問に感じていたことを全部尋ねて、札座保存にほのかな灯りが見えたような。

三日月の武家屋敷

三日月藩一万石五千石の城下町に、武家屋敷が並んで残っているということを聞き、案内してもらって見学に。武家屋敷は案外残っていなくて、四軒も連続して残っているのは極めてめずらしいそうです。この武家屋敷は藩内で上級の武士の住まいだったそうですが、案外こぢんまりしています。造りや素材も質素です。三日月は武家町・町人町・宿場町が続いていますが、商家の方がぜいたくな造りだといいます。確かに、この武家屋敷より百姓でも庄屋さんの屋敷の方がずっと大きくて立派です。ただし、百姓は瓦屋根と門構えは禁止されていました。

河本大作顕彰碑

河本大作が三日月出身ということが話題になり、河本大作の生家にいきました。大きなお屋敷でした。河本大作は張作霖爆殺事件の首謀者として高校日本史の教科書に出てきます。事件の後、河本大作は私財を処分して部下たちに補償したやというエピソードは聞いていましたが、これほどの広大なお屋敷で生まれていたとは。教科書では、日本軍が政府の統制に従わなくなったという否定的評価で描かれる人物ですが、地元では悪くいう人はなく、顕彰碑まで建てられています。顕彰碑はお寺にあり、白壁の向こうには河本家のお屋敷が広がっています。

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