忠臣蔵赤穂義士の赦免願い

忠臣蔵赤穂義士赦免願

旗本若狭野浅野家は浅野長恒に始まります。浅野長恒は、赤穂藩初代藩主浅野長直の娘が大石家に嫁いで生まれた子供(長直の孫)です。

元禄14年(1701)、江戸城で浅野内匠頭長矩が吉良上野介に刃傷に及ぶ元禄赤穂事件が起こります。この事件で赤穂藩は改易され、元禄15年(1702)には、生家大石家の大石良雄が吉良邸に討ち入ります。幕府は四十七士に武士の名誉を認め切腹を命じました。四十七士は歌舞伎などのテーマとなり庶民の人気を集めました。また、森家になってからの赤穂では追悼供養が行われています。

とはいえ、本家赤穂藩は改易処分を受けており、幕府の公式判断は赤穂浪士の討ち入りを合法と認めたわけではありません。旗本浅野家は密やかに霊魂の祭祀を続けていました。幕府が瓦解し明治政府が発足すると、旗本浅野家は朝廷に本家浅野長矩及四十七士の罪科赦免を懇請し、名誉回復を図りました。

1953(S28)年に、郷土史家の小林楓村先生が雑誌『播磨』に「若狭野陣屋浅野家に就いて」を掲載し、浅野家が罪科の赦免と霊魂の祭祀を公然とできるように願い出た文書を引用しています。

「私宗家故内匠頭長矩、元禄中、勅使関東御下向の砌、吉良義英無謂意趣を含み、妨公務候に付、憤慨之余り不弁前後終に及私闘候次第、全く不憚営中粗暴之挙動奉封天使不敬之罪不軽、即日賜死命所領没収被仰付候処、長矩生前不逐出意蒙罪命候段、地下之幽憤散する期有之間敷、臣子之至情難黙止、大石良雄を始四十六人之者共、千辛萬苦復響之素意を逐候処、是又犯公法候罪科難遁、自裁被仰付候者今更不及申上候。乍併於精忠節義者古来例少なく、百世臣子之亀鑑とも相成り、海外迄芳名を流布候義、挙世て共に所知に候へ共、不幸にして主従之者共幾んぞ二百年之久しき、唯不免罪名而己ならず、霊魂祭祀も憚公憲表立難相営、誠に私共支属之身に於て遺憾之至奉存候。然る処、御一新孝子義僕御褒賞、別而忠死之者共准神祇霊魂祭被仰出。斯る明時に遭遇仕候も実に千載之一機と奉存候に付、不顧忌諱奉哀訴候。伏願は皇悠を被為垂、長矩主従之罪科御赦免被為成下候へ者、公然霊魂祭祀仕奉存候。右願之趣御聞届被為下置候へば、祖先江追孝義士共慰忠魂、積年之素懐を逐け、難有仕合奉存候 」

小林楓村先生が「吉良義英」と書いていることに疑問を抱いていましたが、2016年11月、龍野文化資料館が浅野隼人家文書の企画展を行ったときに文書の現物を見る機会がありました。そこには「吉良義英」という文字が。小林楓村先生の文字起こしが正確だったことに感動しました。

詳細は「忠臣蔵と若狭野浅野家」にあります。

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