皇室領矢野荘

皇室領矢野荘

皇室領矢野荘東寺百合文書がユネスコの世界記憶遺産に登録された。百合文書という名称は、加賀藩が東寺に伝わる古文書を整理して百の桐箱に収めたことに由来する。相生市は大規模な荘園、矢野荘(やののしょう)と同じ領域にあり、百合文書に含まれる矢野荘の記録は、中世の故郷の様子を今に伝えている。相生は歴史に恵まれた町なのである。

十一世紀、赤穂郡司秦為辰が普光沢川流域を開発して藤原顕季に寄進し、孫の美福門院に受け継がれた。彼女は鳥羽天皇の皇后になり、平清盛・源義朝を動員して保元の乱に勝利した女傑である。皇室領矢野荘は、1137年に美福門院によって成立している。

私が矢野荘を調べ始めた頃、秦為辰が開発した地だけでなく、若狭野・矢野に広がる国衙領(元は口分田)も矢野荘に含まれる理由が理解できなかった。高校時代に学んだ寄進地系荘園として矢野荘を理解しようとしたからで、美福門院は国衙領を含む相生市全域を矢野荘に取り込んだのである。こうした荘園を領域型荘園といい、まだ教科書に登場していない新しい概念である。

鎌倉時代末、矢野荘は地頭海老名氏と東寺・南禅寺が分割支配する地域となった。東寺・地頭・悪党寺田法然や農民の行動は百合文書に記録されていて、私たちは六百年前の故郷の出来事を知ることができる。

矢野荘は文書の研究は進んでいるが実地の発掘は遅れていて、政所の位置さえ確定していない。近年、地域のアイデンティティを荘園に求め、景観復元に取り組む地域が現れている。百合文書の世界記憶遺産指定をきっかけに、皇室領矢野荘を受け継ぐ相生市の歴史の再評価が望まれる。

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