浅野陣屋とは

浅野赤穂藩初代藩主浅野長直は、娘の鶴姫が大石家に嫁いで産んだ大石長恒を養子とし若狭野三千石を与えて分家としました。浅野長恒は将軍直参の大身旗本に列せられます。若狭野は赤穂藩の領地内にあり、他藩と境を接することがありません。鎌倉時代は皇室領矢野荘、室町時代は東寺領矢野荘として、東寺百合文書に記録される肥沃な地です。

統治は赤穂藩が行っていましたので、若狭野にある陣屋は小規模なものでした。しかし、1701年、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷におよび、翌年、大石内蔵助が吉良邸に討ち入ります。若狭野の浅野隼人家は旗本として存続を許されましたが、赤穂藩が改易されたため自ら統治を行う必要が生じました。そこで、陣屋を移転し拡張します。これが、現在の若狭野陣屋です。

旗本の当主は江戸に在住し、所領には帰りません。明治維新とともに、浅野長発は若狭野の帰り、御殿を増築しました。画像で斜めになっている部分が浅野長発が新築した部分です。江戸時代からの建築物も増築されたと考えられています。ところが、明治30年代、浅野家は事業に失敗し陣屋にあった道具類・建物を売却しました。

現在、陣屋の敷地はほぼ全容を残していますが、建築物としては、唯一、札座だけが残っています。札座の建築年代などは未解明です。私たちは、江戸時代末期、藩札の発行など藩政改革を進めるために建てられた役所ではないかと推定しています。

2006年、浅野赤穂藩の文書が発見され、龍野歴史文化資料館で整理され公開されています。浅野赤穂藩の文書は、赤穂藩江戸屋敷から若狭野浅野家の江戸屋敷に移され。明治時代に若狭野陣屋に運ばれました。浅野家が若狭野を去った後、浅野家の娘さんたちの努力で保存されていたものです。浅野家文書のうち藩政改革に関する資料は、関西大学の津田秀夫文庫に収められ東北大学の荒武賢一朗准教授などによって研究が進んでいます。若狭野陣屋・江戸屋敷・大坂天王寺屋で交わされた文書類は、旗本研究の新しいフィールドを開きつつあります。

若狭野陣屋は史跡、建築物として貴重なものであるだけでなく、浅野家文書に登場する歴史の場としても貴重なものです。浅野陣屋保存ネットワークは、法人「浅野陣屋記念館」を設立し、浅野陣屋の札座保存から始めて、浅野陣屋全体の復興をめざします。

若狭野浅野陣屋

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